ハルピンでの日本の足跡が
以前、ハルピンの骨董街に通って骨董品などを物色したとブログに書いた事があります。
ハルピンの勤務先でも何となく骨董好きが知れていたみたいで、ある人が日本の掛け軸を持っているのだが、見てみないかと言われた。
骨董好きと言っても、素人バリバリの単なる冷やかしの範囲を出ないので、日本の鑑定団に出ているお客さんたちと変わらないレベルです。
そんな感じなのですが、見るだけならいいかと思い持ってきてもらう事にしました。
掛け軸を持ってきてくれた人はハルピンの方なのですが、その方のお父さんがその昔旧日本軍による満州国時代に、ある日本人からあずかったものだとのことでした。
その日本人からは、「高名な作家によるものだが預かってほしい、日本に帰るがまた来るのでよろしく」と言われて預かっていたが、そのままハルピンには帰って来なかったそうです。
見せてもらいましたが、けっこう古いもので、1部は破れかけたり染みが出てきたりしています。
預けられて以来ずっとその家に保管してあったのですが、その日本人の名前も連絡先も分からなくなってしまい、ずっと持っていたそうです。
しかし、保管していた母が価値が分からなかったので保管方法は悪く、保存状態も良くないのですと釈明していました。
この掛け軸は、「寛畝」の銘があります。フルネームは『荒木寛畝:あらきかんぽ』です。
一目で古いものだと分かります。図柄は虎が背を向けて月を見上げているような物です。月はかなり薄くなっているため、よく見ないと分かりません。年号には「庚寅新正」
ネットで調べてみました。
『江戸・芝の出身。旧姓田中。名は吉、幼名を光三郎。別号に達庵。9歳で谷文晁派の荒木寛快に入門、22歳のとき寛快の養嗣子となった。 1856(安政3)山内容堂に認められ土佐藩の絵師となり、維新後の1872(M5)ウィーン博に「菊花図」で受賞した。同年容堂没後、洋画に転向、油絵を川上冬崖などに学び、一時油絵3名家として五姓田芳柳、高橋由一と共に並び称された。その後再び日本画に復帰、南北合派に洋風を加味した写実的な花鳥画を得意とし、1887設立の日本美術協会の重鎮として活躍。 1898東京美術学校教授、1900帝室技芸員。1906英国ロイヤル・ソサェティ・オブ・アーツ会員。 1907開設の文展では第1回より審査員をつとめた。代表作に「孔雀図」など。享年85歳。』
と書いてあった。
年号の年は、「1890年」にあたります。
また、日本での価格もどれぐらいなのか調べてみました。
保存状態のいいもので 9万ぐらいの値がついていました。
ネットの紹介記事ではけっこういいことが書いてあったのですが、以外に値付けは安い気がします。
この掛け軸を持ってきた人は、鑑定団の番組にでも出たように、高い評価を期待していたのでしょうが、私が買い取り値段を言うとがっかりしたようです。
「人民元でせいぜい高くて2千元どまりではないでしょうかと思います」と、言うと掛け軸を丸めて帰って行きました。
結局この掛け軸には縁が無かったのかも知れませんが、ハルピンで日本の掛け軸を持っている方にお会いできたのは貴重でした。
ハルピンでかつて満州国と言うものがあった時代の日本人の遺物です。
しかし、安ければ買って表装しなおしてもいいかなと少し心残りでした。
どなたか興味のある方は交渉してみてはいかがでしょう。
こんな掛け軸以外にもたくさん日本の足跡が残っているハルピンでは、意外なものも発見できそうです。
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